名古屋高等裁判所 昭和55年(行ス)5号 決定 1980年6月17日
抗告人(相手方) 土岐市議会議長
相手方(申立人) 伊藤茂雄
主文
本件抗告を棄却する。(但し、原決定主文第一項中、原決定書一丁目裏面第一行目末尾の句読点から同第二行目の「告知し」までを削除する。)
抗告費用は抗告人の負担とする。
理由
抗告人は、原決定を取消す、本件執行停止申立を却下する旨の決定を求めたが、その理由とするところは、別紙即時抗告に伴う意見書(写)、同抗告理由補充書(写)に記載されてあるとおりである。
本件記録に基づいて判断するに、当裁判所も次に付加するほか、原決定と同様の理由により本件執行停止申立を認容すべきものと考える。すなわち、本案訴訟における証拠調べが開始される以前である現段階では、抗告人の提出にかかる全疎明(当審提出分を含む。)によるも、相手方が昭和五五年一月二七日夜抗告人居宅を訪れた際、抗告人からの辞職願の許可の口頭告知の前に相手方から抗告人に対し同月八日付議員辞職願を撤回する旨の意思表示があつた、と一応認定し得る余地が全面的に否定し尽されたとまでは言い切れないものであり、また右撤回は、辞職願許可に基づく新たな公的秩序形成以前のものであり、それが信義則に悖るとの疎明もないので、結局、原決定が本件は本案の理由の存否が未だいずれとも決し難い、と判断したことは相当である。そして、この場合には、行訴法二五条三項の「本案について理由がないとみえるとき」には該当しないものというべきである。なお、本件記録によると、抗告人は、前記のように、同月二七日夜相手方から訪問を受けた際にも相手方に対して、議員の辞職願を許可した旨を口頭で告げたことも一応認められるので、原決定主文第一項記載の許可処分を告知した時期については、右の口頭で告げたときをもつてするか、あるいは同月二八日に文書を交付したときをもつてするかは、問題の残るところである。従つて、この点は本案訴訟を通じて確定されることとし、本件執行停止決定においては右告知の時期を主文に掲げない。
よつて、本件抗告は理由がないのでこれを棄却することとし、抗告費用の負担について行訴法七条、民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり決定する。
(裁判官 村上悦雄 吉田宏 木原幹郎)
即時抗告に伴う意見書
第一点
原決定の主文は「相手方が申立人に対し昭和五五年一月二六日付で許可し、同月二八日付で告知した議員の辞職許可処分の効力を本案(当庁昭和五五年(行ウ)第五号)についての判決確定に至るまで停止する。」とあるが、抗告人は同月二七日に告知しているのであるから右主文の告知日は誤りである。告知は口頭でも有効に成立している。
第二点
被抗告人は、同年一月二八日に辞職願の許可文書(疏甲一号証)を異議なく受領し、凡そ一〇日間にわたりそのまゝにしておきながら、突如として前日の二七日に辞職願の撤回通告をしたと主張するに至つたものであるが、抗告人は被抗告人が右文書を異議なく受領した重大なる事実をもつて辞職願の撤回のなかつたことを強く主張して疏明しているのであるが、原決定がこの最も重要であり且つ鮮明なる疏明事実につき全く判断を示していないことは重大な誤りである。被抗告人が若し辞職願の撤回の告知を二七日に真実にしたものであるならば、二八日の許可文書の受領は必らず拒否するか或は何らかの異議を申出るはずのものである。許可文書の受領の拒否もなく、異議の申出の全くなかつたことは許可文書を容認したことであり、辞職願の撤回の告知が真実になかつたことを疏明して余りあるところである。
また、仮りに被抗告人が辞職願の撤回を口頭にてしたものであつたとしても、異議一切を述べずに許可文書を受領することは撤回の撤回をしたことに評価され、辞職の許可を容認し、辞職許可の効力を認めたことである。
第三点
被抗告人が辞職の許可文書を異議なく受領したことにより、土岐市議会は被抗告人が辞職したものとして各種の処理手続を終了し人事面において一定の秩序が形成されているものである。
原決定は、被抗告人が土岐市議会総務委員長であり、委員会活動を通じて議員としての職責を果せないことを挙げ回復困難な損害を生ずるおそれがあるとしているが、既に総務委員長は後任者が選任されて就任しているので、原決定の指摘する緊急の必要性は根拠が弱まつている。
抗告理由補充書
一 辞職願の撤回はなされていない。
1 辞職の許可とその告知
昭和五五年一月九日付で受付けられた相手方提出の辞職願(疏乙一)は、議会閉会中であつたため、地方自治法第一二六条但書に基づいて抗告人の許否権限によつて処理されるべきところであつたが、抗告人は、議員辞職という事柄の重大性から慎重を期するため、同年一月一四日、議会運営委員会委員に諮つて意見を求め、さらに同月二二日、各派代表者会議(相手方の地元に当る泉町選出の市会議員も加わる)の協議を経、そのうえで同日の全員協議会の意見も聴取し、再度二五日には、各派代表者会議において協議を加え、その結果同月二六日、市議会副議長水野甲市の意見を参考にして、抗告人において許可を決定したものである(疏乙三、四、八、九抗告人の審尋調書)。その後翌一月二七日午後一〇時頃、抗告人宅において、抗告人は相手方に対し、前記辞職願に対する右一月二六日の許可を口頭にて告知した(疏乙八、九、一九、一三、一七、抗告人の審尋調書)。尚、念のため、抗告人は、翌一月二八日午前八時頃、相手方に対し、市議会副議長水野甲市、市議会事務局次長渡辺耕平の立会のもと、「土岐市議会議員辞職の受理について」と題する右許可通知記載の書面を交付したものである(疏甲一、疏乙八、九、一〇、一九、一七、一八、抗告人および相手方の審尋調書)。
ところで、右許可告知の際およびそれ以前においても、相手方は、抗告人に対して、一切、辞職願の撤回の意思表示をなした事実はなく、許可告知の手続はとどこおりなくなされたのである。しかるに、相手方は、右一月二七日の許可告知の際に辞職願を撤回したと主張し、他方、原決定は右「意思表示を撤回する旨を告知したものか否かは必ずしも明らかでない」として、結局相手方の執行停止の申立を認容してしまつたのであるが、右はいずれも明らかに事実に反しており、右撤回の意思表示は全く存在していなかつたのである。以下に項目を改めて述べる。
2 相手方の辞意は強固である。
相手方の辞意は、一件記録によれば、相手方と同居している長男の妻がいわゆる暴力団がらみの覚せい剤取締法違反被疑事件を引きおこしたことに対する道義的責任に基づくものである。いうまでもなく、この種犯罪は、昨今とみに社会問題化しているものであつて、その反社会性は極めて強く、たとえ被疑者本人でなくとも近親者にそのような犯罪者が存在すること自体、極めて肩身の狭い思いをするのは一般的なことである。相手方においても、やはり同様に考えたものと思われるうえに、暴力追放を決議した市議会議員の一人として、より一層の道義的責任を感じていたようである(疏乙六)。しかも相手方は年齢五四歳、市会議員歴二〇年という分別の十分に備つたはずの人物であり、その判断は決して軽卒になされたものとは思われないところであつて、そのような条件のもとでの辞職の意思は十分に強固だつたはずである(疏乙六、七、一〇)。
仮に何らかの事情で辞職願撤回の意思が生じたというならば、あるいは、もともと辞職の意思がなかつたところ他意があつて辞職願を提出したというならば、それ相応の形で明確に意思表示がなされるべきであつた。辞職願が昭和五五年一月九日に提出され、許可が告知される一月二七日までの実に一八日間にも至る間、何ら明確な意思表示もなされることがなかつた。しかも相手方は、一月二三日には、辞職願に添附して提出された相手方作成にかゝる「通告書」(疏乙二)なる書面を撤回し(疏乙三、五、八、九)、それまでの辞意の真意に関する一抹の疑念も払拭されてすらいるのである。
このような経緯、状況に鑑みるとき、相手方の辞意は、その内心はともかくとして、対外的には極めて強固であつたというべく、その辞意が撤回されるなどということは、およそ考えにくいものだといわなければならない。
3 一月二七日夜の会見
相手方は、昭和五五年一月二七日午後八時四〇分頃、抗告人方において、抗告人に対し、辞職願撤回の意思表示をなしたと主張するが、事実に反している。
まず、時間の点において、抗告人は、同夜は土岐市下石町一、七九五の一七土岐市長水野沖三方に午後八時一〇分頃までおり(疏乙一五)、その後、同市泉町大富二一六の三水野守商店こと水野定市方に赴き、同人方に午後九時三〇分頃までいた(疏乙一四)。その後、抗告人は午後一〇時頃自宅に帰宅したものである(疏乙八、一九、一三、抗告人の審尋調書)。そして、相手方と面談後、相手方が帰つたのは午後一〇時二〇分頃であり(疏乙一三)、この時間の点に関する相手方の主張は事実に反している。
次に、右一〇時すぎてから一〇時二〇分頃までの間の抗告人と相手方の面談は、右のとおり時間的には短時間であつたが、この間、抗告人から開口一番「辞職願を許可した」旨告知したのみであつて、相手方からはこれに対する異議はもとより辞職願を撤回するような言動は一切存しなかつた。このことは、疏乙第八、九号証や抗告人の審尋調書に記載されているとおりであるが、その他にも、たまたまその夜、抗告人方を訪れていた土岐市曾木町二九七八番地日比野恒夫の目撃するところである。(疏乙一三)。すなわち、同人は、同夜、抗告人を訪問したところ不在であつたため、しばらく待つていると午後一〇時頃抗告人が帰宅した。その際、抗告人は他の者と一諸であつたが、抗告人の家人からその者が相手方であることを聞くにおよんで、右日比野は抗告人と相手方のいる部屋の隣室障子の隙間から両名の言動を目撃していた。その際、抗告人は相手方に対して「辞職願許可」の告知をなし、しばらく無言の状態が続いた後、相手方が抗告人に対して何らかの発言をし抗告人においてその一部を記載しはじめた。右日比野は相手方発言内容の些細を聞知してはいないが、右記載しはじめてしばらくした後抗告人は相手方に対して「陳謝は何回となく言つてみえるのでもうその要はありません」と言明するに及んだとのことである。ということは、右相手方の発言は許可告知に対する異議もしくは辞職の撤回を内容とするものではなく、これまでの間、許可権者である抗告人の手を煩わしたことに対する陳謝であつたことは明らかである(疏乙一二)。その後、抗告人と相手方は無言のまゝであつて、撤回の意を表するような言動もなく一〇時二〇分頃帰宅していつたとのことである。このように、相手方は、抗告人に対して、一月二七日は辞職願の撤回を一切してはいないのである。
4 辞職願の撤回があれば抗告人は無視するはずはない。
抗告人は、前記1で述べたごとく、本件辞職願の取扱いには極めて慎重であつた。それは、一つには、家族の不祥事を原因として相手方がたとえ道義的に責任を感じたとしてもあえて辞職することはないと個人的に考えていたことと、一つには、たとえ前記2、記載のごとく相手方の辞意が固いとはいえ、疏乙第二号証の「通告書」のようなものを添附しておりそれが撤回されるまでの間は辞意に対する一応の疑念をいだいていたことにもよるものである(抗告人の審尋調書)。従つて、そのような状況下において、もし、相手方が辞職願を撤回するというのであれば、そしてその意思表示がなされるのであれば、直ちにそれに対処すべく考えていたのである(抗告人の審尋調書)。仮に、万一当初から抗告人が相手方を辞職させるべきであると考えていたのであれば、何も前記1記載のごとき丁寧な処置をとることなく、自らの判断で許可の結論を下し、辞職願提出後すみやかに告知しておればよかつたはずである。要するに、抗告人としては、辞職願の許否を決するまではもとより許可の告知をするまでの間、辞職願の撤回の申出があれば、もはや許可すべきでないとする事情を十二分に知り、相手方の撤回の意思表示が為されるか否か注意していたのであるが、右一月二七日の夜の面談終了までの間、ついに相手方からは撤回の意思表示はなされなかつたのである。
しかも、右一月二七日に先立つ二六日、相手方は市議会事務局次長渡辺耕平に対して今後の身の振り方について相談をもちかけた電話をしていたのであるが、その電話の終了後、右渡辺は相手方の従前からの人格からみて将来この辞職の許否に関して問題の生ずるおそれを懸念して、直ちに抗告人方に架電した。その内容は、場合によると相手方が抗告人に対して面談を求めるやもしれないが、その際には相手方が辞職願を撤回するかどうか特に注意すべきこと、そして、もし撤回の意思表示があれば、たとえ右許可後でありしかも、告知後であつたとしても、その取扱いについては十分注意して対処すべきである旨の忠告であつた(疏乙八、九、抗告人の審尋調書)。このような状況下で、一月二七日、抗告人は特別の注意を払つて相手方と面談したのであつたが、面談開始後終了に至るまでの間、ついに相手方からは撤回の意思表示は全くなされなかつたのである。
5 相手方のメモ(疏甲二)に真ぴよう性はない。
相手方は、右一月二七日、抗告人に対して疏甲第二号証のメモを読みあげて抗告人がそれを全部書きとりさらに抗告人がこれを朗読して確認した旨主張するが、この点も極めて疑問のあるところであり、右メモは後日になつて作成されたものとの疑念を払拭し去ることができない。
すなわち、相手方は「メモ」というが、実はメモではなく、相手方が所持していたのは手帳である。このことは原審より一貫して抗告人の主張するところであるが、さらに、前記3記載の日比野も目撃していた時の様子を述べているが、明確に手帳であつたと陳述している(疏乙一三)。
また、その内容に関しても、右3で分析したとおり、辞職願の撤回を意味するものではなく、相手方の抗告人に対する陳謝の意味内容だつたのである。抗告人は、その時相手方が手帳を読みあげたものを途中まで記載していたが、その後、右用紙は抗告人の妻においてこれを保存していた(疏乙一二)。それによると、疏甲第二号証のメモとは全く異つた文章なのである。
ところで疏甲第二号証の記載内容をみるとき、その文理解釈からいつても、後日になつてから作成されたことを窮い知ることができる。まず、文中には(正式受理前)とあるが、これは辞職願許可を意味するものと思われる。相手方の主張するところによれば、右許可前とは一月二八日の許可文書告知前をさすはずであるが、相手方が二七日に抗告人に会う以前には未だ辞職願が許可されていることも二八日に書面で告知する予定であることも相手方にはわかつていなかつたはずであり、従つて、そのような段階でわざわざ許可前なることを明示すること自体不自然である。さらに、右メモの文中には「撤回しました」と過去形で記載されているが、もしこのメモが、抗告人に会う前に予め用意されていたものならば、このような表現になろうはずはない。つまり、「撤回します」というような現在形でなければならない。また、メモの末尾の「議長宅」という記載も極めて不自然である。このような場所を記載するということは、吾人の経験からみて、予め用意するメモには全くありえないことであり、その場もしくはその場をはなれた後になつてから記載する場合に限られていることに注意すべきである。
以上要するに右メモの記載は、これを別の表現でいいかえれば「辞職願許可前に議長宅で撤回しました」とも表現することができるわけであり、このことは裏をかえせば右許可後に作成されたものとみなければならない。つまり疏甲第二号証のメモは、一月二七日に抗告人に対して読み聞かされてはいないのである。
6 一月二八日の告知書受領
前記1記載のとおり、抗告人は一月二八日午前八時頃相手方宅において、相手方に対し、前記水野甲市、渡辺耕平立会のもとに、前記告知書(疏甲一)を交付しているが、この際にも相手方は何ら異議を止めることもなく、また、前日撤回した旨を申し出ずることもなく受領している(疏乙八、九、一七、抗告人および相手方の審尋調書)。この際にも抗告人らは、万一相手方において、辞職願の撤回をする場合のことをも念頭において注意深く観察していたのであるが、何らそのような様子もなかつた(疏乙九、一七、抗告人の審尋調書)。それのみか、その際、相手方は、抗告人ら三名に対して、自分はともかく、市役所に勤める子供のことだけは将来よろしく頼む旨依頼をしているほどであつて、明らかに辞職の許可文書を素直に受けとめていたのであつた(疏乙九、一七、抗告人の審尋調書)。
ところで、相手方は陳述書(疏甲三)において、「私は昨晩議長に会つて辞職の意思を撤回してきたばかりなのに何故慌ててこんなことを伝えてくるのか理解できませんでした。」と述べているが、仮りに右撤回が真実ならば、何故その際、その旨を一言たりとも言明しなかつたのか、逆に理解できないところである。この点に関し相手方は原審の審尋の際「無用な混乱を起こしては家族に迷惑がかゝると思つたから」黙つて受取つた旨陳述しているが、右は全く措信できない。すなわち、本当に迷惑な事態を考慮するならば、むしろ逆に、少しでも早い時期に異議をとなえるべきであつて、時期を失すれば失するほど、混乱、迷惑は増大するものであることなど考えるまでもないことである。相手方は、一見、もつともらしい理由をこじつけようとしているのであるが、いかにも荒唐無稽である。
7 相手方はその後も辞職を認めている。
相手方は、一月二七日に口頭で、また翌二八日に書面で辞職願許可の告知をうけた後も、撤回ないしは許可に異議をとめることなく、辞職してしまつたことを前提とする言動をなしている。すなわち、市会議員佐野明は、相手方が書面による許可の告知をうけた後、一月二八日午前一〇時頃、相手方と会つているが、相手方は何らの異議もとめていなかつたし(疏乙一〇、一八)、また、丁度一ケ月を経過した翌月の二月二七日午後七時三〇分泉町窯公民館で約三〇名集まつて開かれた「伊藤茂雄氏の議員の辞職をたゞす会」においても、相手方は「辞職した」と言明していたのである(疏乙二〇)。
8 このように、右辞職願の許可の告知の前には相手方からは一切撤回の意思表示はなされてはおらず、また、右告知前後の状況から判断しても、撤回の事実を推認させるような状況もなく、かえつて、撤回することなく辞職の許可を素直に受けとつた状況が存するのみである。従つて、これらの点に関する判断を誤つて執行停止をなした原決定は明らかに取消をまぬがれないものであり、右停止の申立は却下されるべきである。
二 信義則違反
相手方は、昭和五四年一〇月六日以降一年間は総務委員長の職に就任している予定であつた。しかるに、土岐市議会においては、昭和五五年一月二七日(および念のための同月二八日)の辞職願の許可の告知後、直ちに総務委員長の後任人事に入り、副委員長を委員長代理として度々総務委員会を開き委員長候補を互選し次に本会議の開かれた昭和五五年三月一〇日市会議員加藤明真をして総務委員長に任じた。さらに、同年一月二九日には、土岐市選挙管理委員へ議員の辞職を通知し、同時に市執行部へ通知などの事後処理もなされている。要するに相手方が右一月二七日(もしくは二八日)に異議なく辞職願許可告知受けたことに基づいて、議会関係者は辞職したものとして取扱いその後の議会運営上の新たな秩序が形成されているのである。このような状況は、永年議員を任めていた相手方には十分知悉しうるところであるが、そうでありながら、その後に至つて時期を失したのち辞職の許可を争うことは明らかに信義則に反するものというべきである。これらの点からいつても原決定は取消を免かれないものというべきである。
以上